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読書のおともに

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漫才の西高東低の歴史『東京漫才全史』(神保喜利彦)

東京漫才全史

関西の漫才界を牽引する吉本興業を筆頭に、数多くの関西タレントたちが日本のエンターテイメントシーンで大きな存在感を放っている。しかし、この関西勢の隆盛に隠れがちだが、かつての東京も漫才の大いなる歴史を築いてきた土地であることを忘れてはならない。東京漫才の草分けである東喜代駒から始まる栄華、四天王や夫婦漫才、そして民謡安来節との深い結びつきを明らかにする2章から3章は、東京漫才がかつていかに繁栄していたかを詳細に描写している。特に、芸能のメッカだった浅草の雰囲気や、ラジオ放送との関連性を深堀りする。

時代は移り変わり、落語が主流の場で色物扱いされがちだった漫才がどのようにして尊重され、果たしてどのような困難を乗り越えてきたのか。この本では、戦前の黄金期、そして戦争とその直後の困難な時代に、焼け跡から市民に笑いをもたらし、再び盛り上がる様子をリアルに伝えている。著者が共感を示すのは、落語など他の芸能と同じように、漫才もまた演芸の一環として組織を持つべきだという漫才人の気概だ。これが、1954年ごろに演芸に詳しい松内則三を中心に「漫才研究会」の立ち上げにつながり、翌年には正式な組織が発足した。

この動きは、漫才の地位向上に貢献したが、組織運営には弊害も生じ始める。会長や幹部選定の問題が生じ、師弟関係のもつれといった内部の葛藤も際立ってきた。本書は、漫才研究会の設立から組織内の権力争いまでを、悲哀を帯びた筆致で描いている。なお、漫才という形態が必然的に伴う解散の歴史、その過程で生まれる感情の動きも、読者の心を強く打つ。

こうして描かれるのは、東京漫才の栄光と挫折、そしてそれを支えた人々の情熱と組織の葛藤である。著者が丹念に行った調査と個人的な情熱によって、読者にはまるでその場にいるかのような感覚で歴史を体験できるのだ。


書籍名:東京漫才全史
著者名:神保喜利彦
出版社:筑摩書房(筑摩選書)

 

人間性、正義、社会性…深いテーマに切り込んだ警察小説『県警の守護神』(水村 舟)

県警の守護神: 警務部監察課訟務係

警察小説は一見、犯罪とその解決にフォーカスした単純な物語に思えがちだが、その実態はずっと複雑で、人間の内面や社会の様々な側面を掘り下げる深い「容器」である。明らかにされる事件の背後には、人間ドラマ、個人の成長、組織内の葛藤といった様々なテーマが隠されており、それらは捜査官たちの仕事を通じて繊細に描かれていく。このような多様性が、読者にとって警察小説の魅力の一つとなっている。

異なる部署に所属する警察官が扱う事件の種類が異なるのは当然で、それによって物語の色彩も大きく変わる。人の命を奪う犯罪から、社会の安全を脅かすテロリズム、経済犯罪まで、捜査の舞台は多岐に渡る。このような背景が、警察小説に深みを与え、読者にさまざまな角度から物語を楽しむ機会を提供する。

『県警の守護神』では、警察組織内に存在する一風変わった役割、訟務係が物語の中心になる。彼らは警察が訴訟に巻き込まれた際の対応を担い、民事訴訟における防衛線を構築する。この特殊な任務は、警察活動が常に正義ではなく、時に社会的な議論や批判の対象になることを物語は教えてくれる。

物語は、一見シンプルな根幹から始まる。新人女性警官が事故を目撃し、助けを試みるが、それが思いがけない訴訟に発展する。事件は、一人の警察官が受ける社会的なプレッシャーと、警察組織が直面する複雑な課題を浮き彫りにする。

その中で複雑なキャラクターが登場する。元裁判官である訟務係の警察官で、彼の存在は警察内の「正義」の概念を探求する旅へと読者を誘う。それは組織の意向に反する行動を取り、真実と正義を求める個々の警察官の葛藤を描出する。

この物語では、警察という組織が直面するジレンマ、内部の階級制度、男女間のパワーバランスといったテーマも織り交ぜられている。それらは、警察組織が保持するべき本当の「正義」とは何かという問いに対する答えを探す過程で重要な役割を果たす。

この物語は、単なる事件の解決を超えて、人間性、正義、社会性といった深いテーマにまで踏み込んでおり、読み終わった後も長く思索を促す。『県警の守護神』は、警察小説というジャンルの新たな可能性を拓いた作品であり、読者には続編が期待される。

 

書籍名:県警の守護神
著者名:水村舟
出版社:小学館

 

イスラム圏の架空の土地で繰り広げられる神話的難民文学『西への出口』(モーシン・ハミッド)

西への出口(モーシン・ハミッド)

ある想像上の町を舞台に、イスラム圏の片隅で内戦に翻弄される若い男女が出逢い、逞しく「西」を目指す物語だ。登場人物たちの独自性を強調するために、実在と虚構が入り交じるような、独特な世界観を構築している。

主人公は、黒いローブで身を覆いながら、バイクを操りマリファナを吸うという型破りな姿で読者の前に現れる。他にも、内戦の影響で社員解雇を余儀なくされて涙を流す事業主や、レモンの木を見て微笑む男など、彼らが持つ深い人間性を浮き彫りにしている。

物語は難民たちの顛末を、神秘的に描写している。彼らは「扉」の向こう側に平和を求めるが、その「扉」は現実の世界では定義しづらい。戦禍を逃れる人々の手の中にはスマートフォンがあり、画面越しには豊かな生活を楽しむ人々が映し出される。その事実は、わずかな境界線で隔てられているに過ぎず、運命のいたずらによって決定づけられている。ただし、それを超えたつながりも存在し、それは無数の絆や、束縛されない個々の運命のもとで、どんな境遇にあろうとも互いに共有する人間としての脆さや儚さ、そして時代を超えて常に移り変わることの必然性を示している。移民の物語であると同時に、変転するあらゆる人の精神的な軌跡を映し出し、最終的にはすべての読者自身の物語に繋がり、共感を呼び覚ます。


書籍名:西への出口
著者名:モーシン・ハミッド(藤井光訳)
出版社:新潮社(新潮クレスト・ブックス)

 

ナウマンゾウの発見者としても知られる地質学者・エドムント・ナウマンの足跡をたどる一冊『地質学者ナウマン伝』(矢島道子)

地質学者ナウマン伝(矢島道子)

幕末から明治期にかけて、日本は積極的に西洋の科学を取り入れた。それを土台にした科学教育の成果が、今の日本人ノーベル賞受賞者数につながっているとされる。

明治政府は、特に科学者や技術者を好待遇で呼び寄せ、彼らは「お雇い外国人」と呼ばれていた。ドイツ国籍のエドムント・ナウマン(1854~1927年)も、その一人だ。当時、まだ20歳という若さで横浜の地を踏んだ。

エドムント・ナウマンは地質学者である。地質学は、地球の地層や岩石を研究する科学分野であり、その分析結果は地質図としてまとめられる。より正確な地質図は、石炭などの鉱物資源探査や土木建設計画など、多岐にわたり利用できる。国家の近代化は、これなしには考えられない。

ナウマンは日本に着いてから4年間、主に東京大学で地質学の講義を行った。1879年、日本固有の地質図の作成を目的とした地質調査所が設立されると、彼は地質課技師長として任命される。そして、職員を引き連れ日本各地を精力的に調査した。その調査は、北海道など一部を除く全国を対象とし、その成果として日本初の詳細な地質図が完成した。これは1885年のベルリンで開催された万国地質学会議で発表され、現代の地質図と比較しても、高い精度を誇る。

契約満了後ドイツへ帰国したナウマンは、研究成果を著書『日本群島の構造と起源について』として残した。また、糸魚川静岡構造線と呼ばれるようになる断層地形に特に注目しており、これをフォッサマグナ(ラテン語で「大きな窪地(くぼち)」の意味)と命名した。

また、先史時代からの日本に生息するゾウの研究においても功績を残す。彼が研究した4種のゾウの内1種が新たな種であることが明らかとなり、ナウマンゾウと名付けられた。

これほどの功績を残しながら、日本でのナウマンの評判は芳しくなかった。英語を話せなかったり、母国ドイツで日本に対するネガティブな内容の講演したりしたからだという。しかし著者は、ナウマンの孫をドイツで直接訪ねるなど取材を重ね、多くの悪評が誤解に基づいていることを明らかにし、彼の真の業績と生涯を読者に教えてくれている。


書籍名:地質学者ナウマン伝
著者名:矢島道子
出版社:朝日新聞出版(朝日選書)

 

古事記と日本書紀の相違点から出雲神話を読み直す一冊『出雲神話論』(三浦佑之)

出雲神話論(三浦佑之)

古事記と日本書紀は、しばしば「記紀」として一括りにされがちだが、その内容は必ずしも一致しない。古事記に数多く登場する出雲神話が、日本書紀にはほとんど見当たらないのだ。本書は、古事記と日本書紀は「別物」だとし、スサノヲやオホナムジ(オオクニヌシ)をめぐる出雲神話について論じている。また、松江市に鎮座する神魂神社に注目した論考も面白い。

神魂神社に祀られる神は、一般にはイザナミとして知られているが、著者はカムムスヒ(神産巣日神)が祀られているのではないかと推察する。この神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と共に古事記の序盤で登場し、宇宙の創造に関与する造化の三神として位置づけられている。神々の祖とされる存在でありながら、出雲地方では地元の神々を支援する役割を担っている。また、出雲国風土記においては、神魂命として言及されているのが興味深い。天孫族とされるカムムスヒが、実は出雲族の祖神であり出雲神話の成立土台とする論考はエキサイティングだ。

そして、著者の興味はさらに広がっていく。佐太神社はかつて佐太大神のみを祀る神社であったが、現在では多くの神が合祀されているのはなぜか。国引き神話で知られる八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が、日本書紀に登場しないのはなぜか。出雲大社の建設に用いられる大柱は、天孫族ではなく出雲族の伝統工芸に由来するのではないか、などなど。

わたしたちが神話に惹かれるのは、神話の中に歴史的事実が含まれているという期待にある。しかし、実際のところ、その歴史的真実を突き止めることは難しい。権力者は自らの正統性を記録する一方で、敗者の記録を抹消する。それを「敗者の運命」と割り切ることもできるが、日本の起源や歴史に興味を持つ身としてはモヤモヤが残るのも事実である。

記録を隠蔽することや、あえて省略することで、信仰心や神秘的な雰囲気は増す。出雲族がヤマトに支配され、徐々に歴史の表舞台から消えていく様を追体験しているような気分になった。


書籍名:出雲神話論
著者名:三浦佑之
出版社:講談社