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ヒロイン(桜木紫乃)

宗教団体による毒ガス事件後の逃亡者の人生を描いた作品と聞けば、記憶に新しい悲劇を思い出す者も少なくない。『ヒロイン』と題されたこの小説には、岡本啓美という架空の女性が、ひとりの人間としてのアイデンティティを放棄し、別人として生きる選択を余儀なくされるストーリーが細かい描写と共に記されている。原作者である桜木紫乃は、架空の事件の犯人とされ逮捕されることを恐れて逃走を繰り返す女性の内面に深く迫り、その過酷な現実を浮き彫りにしている。

小説では、毒にも似た母親との関係性から解放されるため、啓美が教団にすがるところから物語は始まる。そこではある意味での「安息」を見出したが、教団との突然の訣別、信じていた同志からの裏切りによって、その居場所さえも失ってしまう。教団の指導者と共に命からがら逃亡を続けた彼女だが、その過程で次第に理不尽な扱いを受けるようになり、肉体的な苦痛に耐えながらも自らの意志ではなく、偶然巡り合った人々の手を借りて生き延びていくことになる。それ自体が犯罪に加担することとなり、その罪悪感に彼女は押しつぶされそうになる。

もし啓美が過去の選択を改める勇気を持っていたならば、この17年間も違ったものになっていただろう。しかし彼女の場合、教団への盲目的な信仰に続き、逃亡生活中も近視眼的な安全への固執が新たな誤りを生んでしまった。明確な犯罪に手を染めた事実に対する反省や後悔、そこに他者への同情を求める余地は存在しない。

それにもかかわらず、彼女に対する哀れみの念は生じてくる。愛情という人間の基本的な感情の在り方を適切に理解できなかった彼女が、初恋の相手にすら真の絆を築くことがなかったことは、幼少期から愛情を求め続けたがゆえの彼女の人生の軌跡である。彼女が犯した過ちが、誰にとっても等しい重さを持つかどうか、その評価は一筋縄ではいかないだろう。

事件から時間が経過し、啓美に対する周囲の厳しい目とは裏腹に、協力者との間に温かい感情が芽生えることになった。この新たな繋がりが彼女にとっての唯一の「救い」となりえたが、彼女の過去の選択は最終的に厳しい結末を迎えることになる。名を変え、己の意図とは異なると主張しても、犯した罪からは逃れることはできず、名を背負って生きることの大切さと厳しさが浮かび上がる。


書籍名:ヒロイン
著者名:桜木紫乃
出版社:毎日新聞出版

 

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