YOMEBA

読書のおともに

※ 当ブログはAmazonアソシエイトを利用しています

狭間の者たちへ(中西智佐乃)

絶えず疲弊しきっている男性が主人公の物語「狭間の者たちへ」は、社会の中で見過ごされがちな個人の苦悩を鋭く描き出している。個人の痛みが誤解や偏見によって増幅される過程を描いたこの作品は、読者に自己と他者のあり方を深く考えさせる。中西智佐乃氏によるこの著作には、同じく深い人間心理の機微を掬い取る受賞作「尾を喰う蛇」も含まれており、どちらの話も現実世界での彼らの行き場のなさと葛藤を際立たせる。

「狭間の者たちへ」に登場する中心人物であり、保険会社に勤務する四十歳の藤原は職場における厳しい人間関係に悩まされている。上司からは結果を求められ、同僚との間での意思疎通も上手く行かず、人手不足という重圧のもとで日々の業務に追われている。家庭では子育てにストレスを感じている妻の厳しい言葉が彼を迎え打つ。そのような状況の中、心の憩いを見いだせるのは毎朝の通勤電車で目にする女子高生だけである。

藤原の存在は、見て見ぬふりをされる「狭間の者たち」の象徴である。彼は女子高生に何となく目を奪われるが、彼女を“盗撮する男”に気付き、心の混乱を覚える。この出来事は、自らの倫理観を見つめ直す契機となるが、そこには彼の内面のもつれや対人関係のズレが顕著にあらわれている。彼は自己の失意を紛らわせるために、他者を自分の都合の良いように解釈し、利用しているにすぎない。

そのような状況下で、藤原は女性を一括りにして敵とみなし、その怒りは社会に対する全般的な不満へと変化する。彼が女性をまとめて「女」という一つのグループに分けてしまう行為は、自己の立ち位置を明確に把握できず、他者に同様の尺度を適用することの困難を物語っている。

弱者であれ強者であれ、私達は誰しもが世の中でうまく立ち位置を見つけようともがく「狭間の者たち」であることが、本作を通じて浮き彫りにされる。藤原のような人物が「彼女」と向かい合いながらも、彼女の本質や個性を見ようとしない態度は、多くの登場人物たちを単なる象徴として扱い、彼らの人間性を認めない社会の姿勢と重なる。それは人間としての尊厳に対する考察を促し、社会が抱える複雑さを直視することの重要性を突きつけている。


書籍名:狭間の者たちへ
著者名:中西智佐乃
出版社:新潮社